寛政7年(1795年)江戸と大阪で、職人の為の絵手本『諸職絵鑑(しょしょくえかがみ)』が発売された。当時の細工職人の為に出された画集で、中に神社の狛犬の絵が出ている。 江戸で建てられていた狛犬のイラストが載っていて、石工もこの絵を基に狛犬を彫ったが、一つ間違いがあった。基の石狛犬に付いていた宝珠と角の位置が逆で、『諸職絵鑑』は間違った配置のイラストを載せていた。後で、間違いに気付き訂正された狛犬も建っているが、そのまま彫り続ける石工もいた。 |
石大工、中根善兵衛29歳作と刻まれている。 |
安政6年から明治維新をはさんで、暫く狛犬の奉納が少なくなったが明治の早い時期に建てられた宝珠狛犬。ただ彫った石工は分からない。 |
足助の宝珠狛犬とよく似ているがスリムに彫られている。作者名は彫られていないが他にも何組か確認している。江戸時代生まれの職人が彫ったのだろう。本来ならば楕円になっている台座へはめ込んで設置するのが、岡崎型狛犬の古い流儀になる。 |
明治も半ばになると宝珠狛犬もバリエーションが増え、『嶺田久七』ら石工達の個性的な彫り方が広がっていった。岡崎石工の市場は名古屋方面が多く、地元の石工と競合が始まり、浪速型狛犬の名古屋仕様と宝珠狛犬、更に岡崎型狛犬へ移行する前の狛犬が、愛知県西部へ広がっていった。 |
明治も半ばを過ぎ狛犬の情報も石工に伝わり、岡崎の職人達は個人技で狛犬を彫り始めた。獅子・狛犬の様式で角の付いたタイプは岡崎では広がらなかった。当時は東京・大阪・出雲と狛犬の三大産地が在り、独自の形で彫っていて、岡崎も新しい形を求められていた。そこで岡崎産の狛犬は獅子タイプでライオンを意識しだした。 |
愛知県近郊の神社を全て回ってはいないが大体の流れは判った。順不同で貼っていきます。見つけたのは明治38年奉納の狛犬で、形としては完成している。尻尾は体から離れていなく短く、耳の形も何通りか存在する。作者は今井新太郎と判明。 |
創世期に彫られた狛犬で色々チャレンジしたタイプの狛犬。この体で宝珠狛犬になったのが名古屋市港区に在る。子付き・玉持ちタイプで彫った狛犬が愛知県西部に建てられ、分っている中で岡崎石工『今井新太郎』が彫った子付き・玉持ちの最初の狛犬(明治44年製)。 |
大正4年奉納の狛犬。作者は岡崎の牧野政次郎となっている。岡崎型のシルエットが出ていて、孫兵衛量産型が世に出る直前の狛犬。狛犬本体を台座に埋め込み、地震でも狛犬が台座から落ちるのを防ぎ、大正時代は主流の設置方法だった。 |
大正4年の奉納だが作者名は分らない。宝珠狛犬の彫り方を受け継いでいる職人で線刻で彫ってある。この頃には孫兵衛狛犬も完成の域に達していたが、影響は受けていない。頑なに自分の流儀を貫いた職人仕事だ。 |
明治中期に新しいタイプの狛犬が出現し、中でも酒井孫兵衛(六代目)の彫った狛犬が評判を集め、この狛犬が岡崎型狛犬の原型になった。以後職人達に受け継がれ日本全国に出荷されている。 |
酒井孫兵衛(屋号)作の岡崎型。この形が広く職人達に製法が伝授された。 |
孫兵衛狛犬と同時期に彫られていた加藤八太郎作の狛犬。おそらく孫兵衛と親交のあった職人で独立して仕事をしていた。形は完成され完璧に同じ形の狛犬を彫り続けていたが大正時代がピークで、昭和になると数が少なくなり戦前で絶えてしまった。一代限りの狛犬職人だった。 |
明治生まれの職人で戸松庄松(屋号)の狛犬デビュー作の狛犬はオリジナル大正九年作で大正十一年まで彫っていたがこの後、孫兵衛に直接狛犬を習い自分の型を創作した。 |
孫兵衛八代目が彫った狛犬。時間をかけて彫っていて七代目とは違った味付けをしている。同じ形にならぬよう、毛の取り回し等にこだわりがある。 |
一般的に古代型狛犬と呼んでいるのは、古い木彫狛犬で滋賀県大宝神社(ダイホウジンジャ)所蔵、国指定重要文化財の木造狛犬をコピーした石造狛犬です。 |
滋賀県大宝神社所蔵の木彫狛犬をコピーしたもの大正5年には滋賀県に建っている。何所で彫られたかは不明だが、対面設置で胸に鈴が付き(右)獅子・(左)狛犬の様式で彫られている。左の狛犬は角は付いてないが耳が立ち体毛は直毛で、右の獅子は耳が下がり体毛は巻き毛を多く彫り、表現している。 |
昭和11年の奉納で東京の石工名『野村保泉』と彫ってある。左右とも同じ体で体毛も同じで鈴は付いているが角は無くなっている。施主の依頼なのか彫った石工の拘りか??。 |
建て年号は不明だが江戸時代よりも古いとされるのが定説。有名な観光地になっている天橋立にある『元伊勢籠神社』の参道入り口に建っている。 |
分類上、古代型狛犬の中に東大寺型として入れる。日本で一番古いと言われている東大寺南大門にある中国獅子を模し、神社・寺院に建てられている、岡崎石像研究所作。 |